霊能者による占い・除霊 愛知県名古屋市 神気界

霊能者が解説!誰も知らない神社での「お辞儀」「神楽の受け方」

記事作成日 2025.08.22

神社仏閣・神

最終更新日 2025.08.23

雲
雲 雲
雲 雲

愛知県名古屋市&全国対応の霊能者占い鑑定所 神気界 泉 皇導と申します。
私は神社神道系(+仏教系2%)の霊能者です。

皇学館大学に通って神職の資格を4年かけて取得・・・しておりませんので、まあ要はモグリです。しかし神社神道の本を一冊刊行しております。

私は「目に見えない霊的な存在」に指導を受け、おそらくは神道の大学で教わるような知識とはわずかにズレた作法を理由ありきで行なっております。

しかしそのわずかなズレが、「神様への巨大な敬意や知識がなければ出ないもの」にあたりますので、参拝者としての神様からの「よい見え方」に繋がります。

※以下は霊能者としての“現場の見立て”です。一般教義の説明ではありません。

霊能者おすすめ:御祈祷中などの神職・巫女へのお辞儀

そもそも、神社職員「神職」とは何でしょうか。無限に落葉を掃除して境内の衛生環境を無限に保ち続け、御祈祷を行ない、神様に尽くすためにありとあらゆる雑事から御祈祷までをこなす、6割肉体労働(うちほぼ掃除)、3割作業労働、1割頭脳労働や儀式の仕事、というのがその中身のおおむねの事実です。

受け継いだものを変化させない、守る、逸れたものは正す、という思想もこれも基本中の基本で、オリジナリティや人間性を決して出してはいけない「本物の黒子」みたいな仕事にあたります。※御祈祷の祝詞がたまに個性的な方がいらっしゃいますが、それ以外は個性というのをあまり私も見たことがありません。

霊能者としての見立てでは、これは”神道の神が「高い・尊い」ということを確保する仕事”であると言えます。

「高い・尊い」ということを確保する人間が行なうべきことは、「低く・己を小さく・普通に保つこと」だと言えます。

私は非公式的でワイルドカードな存在なのでそこら辺はどうでもいいそうなのですが、神職さんの本質はそんなような感じだそうです。

伝統を保つ、というのは1度の角度のズレが未来の大きなズレに繋がりますので、個性やオリジナリティで何かを曲げるべきではないのかと思います。
(建物やその照明の素晴らしさが現代的で、現代人の心を刺激して未来の信仰に繋がるようなアーティスティックさや建築美がある、とかなら多分良さそうではあるのですが)

神職さんがお客さんで来られたことが一度ありますので、あんまりけったいな(おかしな)内容は書きたくないのですが、ちょっとその方にはごめんなさいとここでお伝えしまして、けったいな内容を今回は書かせていただきます。

神道の神様達の神職への扱いと、参拝者の捉えかた

私個人はあんまり信じがたいなと未だに思っていることですが、神社神道の神様的には、神職の方々は「枝に鳥が止まっている」ぐらいにしか見ないそうです。参拝者は参拝者で「庭に猫が来た」ぐらいの扱いです。

庭に来た猫と枝の鳥で言えば、圧倒的に猫のほうが優先順位が高いものにあたります。

要は、「なにかしたろか」と気分次第でなるのが庭に来た猫、「おるな」としかならないのが枝の鳥です。

「おるな」ということで、要するに神様が干渉する対象にならないそうです。

つまりは「庭に来た猫」よろしく、一般人に対しては「向上をもたらす」「生産性を培わせる」「優秀にさせる」「社会への好影響を引き上げる」などの「なんかしたろか」というアクションを多くの場合は取られますが、

神職は「奉仕させてやっている時点で人生が完成している」と見なされるため、”全日本人の中でも最もお導きが受けられない対象”にあたります。
これは結構な難しい話になります。

神職そのものが神様から受け取っているものは非常に数が少なく、「他人が害してこない運」「なんだかんだほとんど絶対に子供が生まれる相手と結婚ができ、後継ぎが生まれる縁」二個だけだそうです。(要は「鬱病になって職務ができなくなるのはいかんので、文句言われないようにな」「跡継ぎが減少したら神社が減って困るしな」という配慮です。)

この理由は、「高い・尊い」を担保する仕事を選んだから、というところで、「なんなら他人様に勝らない経験が多いほうが人様も神様も世の中様も高く見えるから、最初からほっとけ」という理由によります。

かくして、後から神職・巫女になった人は(なっている期間中)運気が激しく下がり、生まれながらに「この子うちの神社の後継ぎね」と決められているような子は運気で劣るため他人に追い越されがちで、ほぼ無特性な人間になるそうです。(ただし結婚はおおむね出来る)

これは主人と執事、みたいな想像をしてもらうと分かりやすいことなのですが、「執事」としては、主人が前を向いて立派に振る舞っていて楽をしていることが望みで、「主人」は、自分がそのように振る舞って、執事の仕事に目もくれずに沿ってあげることが相互に正しい役割…という話もできますし、

舞台の黒子と演者が居るとしたら、黒子は目立たず完璧な動作をして陰ながらサポートすることが役割で、演者は堂々と、黒子に小声で「ありがとう」とか言わずに配慮もなく目もくれずに演技をしていることが相互に正しい役割…という話もできます。

要はその、滅私奉公のサポーターを選んでいる時点で、本当の意味で「お返しがない」「見返りがない」状態にしてあげること自体が、神様からするところの「作法」、なんなら「礼儀」と言うような感じの話です。

ただし大体の場合、神社の社家(神社を継いでいる家柄)生まれの時点で「強力な資産力」「地域での権威」「人からの敬意」「仕事と進路」あたりは最初からついてきますので、それほどまでに人生が悪くなるような要素はありません。

また、雇われフリーランス神職のような感じだとしても、「人からの敬意」「縁談の話」「地域のコネ」などは非常に多くやってきますので、そこまでは悪い人生にはなりません。あとは、酒と米と塩と野菜に職業上の縁が出来ますので、いやにエンゲル係数が低く済んだりもします。

そのため、「運がないが他がある」という状況にはなりやすいので、そこまで悪いようにはならないように思えます。

この霊的な世界観の中では神職は地位が異常に低い、という話はなかなか説明がうまくしきれないところなのですが、
やはり前述の通り、「主は主らしく胸を張って堂々として従者に目もくれず配慮もしないことが、従者に対しての礼儀であり作法でもある」という話が近いんじゃないでしょうか。

あとはその、一柱の神様の尊さや在り方?存在の高さというのは、神様自体のプライドや気位の話では決して無くて、
なんというか、圧倒的に尊く高い姿を保ち続ける義務みたいなものがかえってある、というか(神様にとっても)、そういった型・形式・様式美みたいなものとして、
高い存在に奉仕している人間はその時点で、見返りとかそういった概念を超越していなければならないし、そんなものは得られると思ってはならないし、実際に得られもしない、みたいな話のようです。

かと言って個人的な都合に等しいところで資金難になって土地を切り売りしまくると、そりゃあ神様的には「尊さを体現した広大で優れた土地を切り売りしおってからに」などとお怒りになられるに違いないわけです。

非常に難しい、報われることを思うべきでもない仕事、というわけです。
ただ高潔で、日本で最も美しい在り方の仕事の一つであるのは間違い有りません。

私個人は、神職さん達には五体投地して感謝して敬意を払いたいぐらいの気持ちは当然あります。

神職・巫女へのお辞儀は無礼なぐらい小さい方が良い

前述の項目から、神職さん達の立ち位置と神様の目線がお分かりになられたかと思います。そこには意外に複雑な理由や、なんらか理不尽に感じるようなそうでもないような色々が隠されていました。

といったところで、我々は神職・巫女さんへはどのようなお辞儀をすべきでしょうか。
正解はこの項目のタイトル通り、「無礼なぐらい小さく」です。
首をちょい曲げでチョイで構いません。

前項では「役割」の説明がありましたが、我々参拝者の役割は、「神様にはでっかくお辞儀」「神職には首チョイでお辞儀」ぐらいが適切です。

考え方的には、「神様に下げる頭は持ってきているが、神職に下げる頭は持ってきていない」ぐらいの感じでよろしいです。
(これはなかなか厳粛な神道徒の雰囲気があり、かっこいいですね。)

「え!神様へのお祈りを代行してくださるありがたいお方なのでは!?」と思いますでしょう。ええ、私も思います。
それでも、「神職をやや低く取り扱い、神様を大きく取り扱う」ことが、霊能者が推奨する作法としては究極のものになります。

もしその「神職には首チョイ、神様にはガッツリ最敬礼(90度)」というのをわざとやっているのが神職さんにバレたら、「おお?ああ、そういう事ね。それはすごい。」と思われることと思います。

これの理由もまた難しいところですが、神様というと「計り知れないほど究極的に”尊い”存在」です。
“尊い”というのは「高い」ということです。ピラミッド・ヒエラルキーを想像すると分かりやすいところです。

高い存在を高く取り扱うにはどのようにすればいいのか?ということですが、これは参拝者としては「己を小さく低く保つこと」が重要なことになります。
そういったわけで頭はガッツリ下げるべきなのは間違い有りません。

そして更に高い存在を更に更に高く取り扱うにはどのようにすればいいのか?ということですが、
「高くないところに下げる頭を持っていない」とする、という話です。

なんかちょっとヒドい話ですが、
要は、神様に深々と下げる頭を、末端のお世話係さんにも同じく深々と下げるというのは、要は「理解せずにただ頭を深く下げれば良いと思っている人」「敬意はただバラ撒けば理解していなくても許されると思っている人」のようになってしまいます。

そのため、「人生を奉納しているどえらい神職様」なのは間違いないのですが、神様の尊さの無量大数分の1の尊さしかない上、本人たちもそれは理解していますので、
「首チョイ」ぐらいのお辞儀でもう結構なのです。家のお隣さんへのお辞儀の仕方よりも浅くて構わないのです。

この話は説明するにも理解するにも高難易度の話なのですが、太鼓判を私が押す方法なので間違いないので信じていただきたいところです。

違和感が出るぐらいで丁度いいので、ぜひ実践してみましょう。

じゃあいつどうしたら?

タイミング的には、
・「ただいまより●●(御祈祷名)を謹んで奉納させていただきます。」→首チョイ
・「お祓いでございます。頭をご低頭ください」→ガッツリ下げる
・「(おおぬさ=紙を垂らした棒を神職が持って)頭をお下げください」→ガッツリ下げる
※神様の御力によりお祓いをいただくタイミングなので
・「御祈祷でございます。頭をお下げください」→ガッツリ下げる
・「えー、本日は皆々様のご祈念を大神様に謹んでお捧げをさせていただきました。本日は遠いところよりよくお参りでした。」→首チョイ
・「玉串奉奠でございます。神職が御玉串をお渡し致しますので、御神前に枝のほうを向けられましてお納め下さい。」→首チョイ
・「それでは二礼二拍手一礼の御作法にて御神前にお参り下さいませ。」首チョイ→ガッツリ「二礼二拍手一礼」
・ほか→神職個人に頭を下げるようなタイミングは「首チョイ」・神様や神様のご利益やお力に頭を下げるタイミングは最敬礼を目指してガッツリ

ぐらいで良いかと思います。

本当は小揖(しょうゆう・15度)・揖(ゆう・45度)・拝(はい・90度)と使い分けるのですが、ややこしいから、「神職には最小礼(=首チョイ)、神様には死ぬほど頭を下げる」と覚えて下さい。(※なんなら“ナメたお辞儀”のイメージでOK)

同様に、お守りをお受けする時やお神酒をいただくときも、「お受けします」とだけ言って「お辞儀などせんでもいい」と覚えられると良いかと思います。

これにより、「気高く潔癖、神の高さを理解しているオーラのある参拝者」として、神様や御神使様がざわつくのは多分間違いありません。本当に。
間違いなくプラスの目立ち方をしますので、「力を貸してやってもいいしやらんでもいいし面白そうだったら手助けするかもしれないし面白くなさそうだったら別になんにもせんでいい」という、神様の目に”かなり”止まりやすくなります。

霊能者おすすめ:御神楽を奉納する場合の考え方

大前提、神楽舞というのは神様にお捧げするものであって、人間に捧げているものでは1mmもありません。
つまりは神様がご覧になられるものであって、「奉納をした人」も「踊りを見る人」もその場に居る意味も観る意味もそもそもありません。

話は逸れますが、あれはお客さんとお酒を奉納しに参拝した三重県のある大きい神社だったかなと思います。
およそ9年前ぐらいだったかと思います。
巫女さんが神楽舞を、神楽をする場に入る瞬間からズッコケて間違ってしまった時がありました。

CDプレーヤーからBGMで流していた越天楽(という音楽)が3度ほど止まりまして、お客さんに帰り道で「なんで音楽が止まったんですか」と私に質問されまして。

「そりゃあ下手くそな舞をするな、という事でしょうけど、奉納した●●さんは悪くありませんしご利益も変わりませんよ。音楽なんて止めようと思えば止められるじゃないですか。神様ですからね。」とお話したのを覚えています。今思えばなかなか怖い話でした。

私が舞手でそんな現象が起これば、三ヶ月ぐらいまったく生きる気力を無くしてしまいます。
そこまでのことかと思われるかもしれませんが、「天皇陛下よりも遥かに尊い存在」に、舞を奉納するとして、「もういい、やらんでいい。ハイ終わり」と言われたら、最低限は「口をポカーンとして3ヶ月ぐらい過ごす」程度には、その”尊さ”を理解していたらショックを受けると思うのですね。

その神様にご縁のあるご相談者様を私がお連れして、日本酒も総額三万円分か五万円分かで、奉納金も十万円はあったかと思います。
それでいてズッコケられたら、私たち祈祷をお願いする側より神様の方が残念がられるのではないかなと思うところです。

背面を向けて神楽舞をしているケース(伊勢神宮内宮・外宮パターン)

どうやら「人に背中を向けるタイミングが多いな」という舞の場合、奥のお捧げ物のある方向にいらっしゃる神様に向けて踊られており、人に向けて踊っていないパターンかもしれません。

伊勢神宮内宮・外宮の神楽舞では全てそのパターンで、他の神社も含めると体感上は8割程度がこのパターンです。

この場合の受け方は、「見ていてもいいし居眠りしていてもいい」、というのが正解です。
なんならプロフェッショナルな私はプロフェッショナル過ぎて、50万円の御祈祷を奉納するときでも居眠りかましています。最後まで起きていられたことがありません。

人が観る意味一切無し。ただし、「よい舞楽(ぶがく)を奉納できて嬉しいなぁ」として、舞台袖から覗かせてもらってるぐらいの気分で観るのはよろしいかと思います。

私は逆に「あまり見ないほうが、神様に奉納している意味合いが強くなる」と解釈しています。
要は「ヒトが見るものから遠ざかる」=「神様が観るものという意味が強まる」という話なので、「御神楽は奉納するけど見ない」という最上級の敬意の表し方を選択しています。

皆さんの場合は御神楽をご覧になられるのは慣れていないはずなので、感激するうちは「こんな素晴らしい御神楽を奉納することができて嬉しいなあ!」と価値を強く感じるので、
やはりそちらの場合はガッツリご覧になられたほうが良のかなとは思います。
また、我慢してチラ見してしまう場合も「あまりに素晴らしいものをお捧げさせていただいている、ありがたい!」という前提でご覧になられたほうが良いかと思います。

前面に向かって神楽舞をしているケース(伏見稲荷大社の神楽舞パターン)

私は千代保稲荷神社>>>>>>伏見稲荷大社>>伊勢神宮外宮内宮 の順番で参拝する回数が多い霊能者です。(伊勢に家があり月イチで行きますが、実際の参拝はあまりして居ません)

伏見稲荷大社では毎回と言っていいほど一番高額な神楽の奉納(たしか2万円or3万円で神楽を単体で。それとは別で普通のご祈祷を依頼し、5,000円にしています。最も”コスパ”が良いようで…)をさせていただいていますので、詳しい方ではあります。

伏見稲荷大社をはじめとして、2~3割ぐらいの神社は正面に向けて神楽舞を行ないます。
これはその神社の認識で、「神様がどっち方向にいらっしゃるか」によるかと思います。伏見稲荷大社の場合、ご神体・信仰対象の方向は「稲荷山」のはずです。
神楽舞台の背景の向こう側は何もありませんので、正面の向こう側に向けて神楽舞を行ない、やや右正面にご祈祷殿があり、真正面に神楽舞を観る参拝者(最近はほぼ外国人)が居ます。

実際は正面に向けて神楽舞を行なわれますので、特に外国のゲストは人に向けて見せている儀式のように勘違いをしているように思えます。

この伏見稲荷大社にあるような「前面に向かって神楽舞をしているケース」は、あくまで私の場合はですが、「一切観ません」。

舞台のヨコの、神楽舞を観覧する座席のようなところに通されますが、そこの真正面20メートルに鎮座している巨大な庭石(岩)を8分間ほどひたすら見ています。(居眠りせずに)

「神様に奉納する舞楽を人間が真正面から観る」というのはよろしい話ではありません。横から観て「おお」とか「わあ」とかなっているのもいただけません。(あくまで私の考え方ですが)

良いものを究極に尊い存在にお捧げしているのであって、自分がそれを後ろからほそぼそ観るならまだしも、横から観るなんておこがましい、という気持ちで岩を眺めています。
横から、正面から観る場合は、「人間が観るもんじゃない」と、まああんまり観ないほうが良いかもしれません。

※なお別に外国の方が観ていたとて奉納の妨げにはなりませんので、母国に帰って「日本ヤベェ」と言いふらして国の格を引き上げてくださるのが間違いありませんので、、
※天照大御神の血筋を次ぐ天皇陛下が現人神(人の形を取っているが神様である)とされた時代は、その歩く道で地面に伏せて土下座しているのが一般人の迎え方だったそうです。そうして顔を上げようとすると、近衛兵の人に頭をふんづけられて「目が潰れるぞ」と言われたとかなんとか。(太陽神だから直視すると目が潰れるの意??)
究極、「尊いものを最も尊いものとして心で扱う」というのは、私にとっては「見ないこと」もその一つの手段で表現方法になります。使い所は「よく考えないと」難しいですが。

ただし…のケース

感動している、感激している、とんでもないものをお捧げさせていただいている、という心があるなら、私の真似をして「見ない」ようなことはしなくても良いです。
その場合は、「お神楽自体が究極のものである」=究極のものをお捧げさせていただいている、という、御神楽の格を上げるような図式ができるので、ガッツリ観ても問題なく、むしろ皆さんの美意識を総動員して全身全霊で打ち震えたほうがよろしいかと思います。

お神楽の奉納が人生で何度目かを通り過ぎ、「ああ、前回とここが一緒だあ」「へえ」「お~はいはい」「筋肉すごいんだろうなあ」「体幹どうなってんの」「へーあそこで受けたのと違うんだぁ」「すそ踏まないのかなドキドキ」とか顔が体型がどうだとか万一にでも評価し出す頃は、そりゃもう心の在り方としては最悪の部類です。
そういった場合はもう、直視しないほうがいいかもしれません。

神様に奉納するだけのものが御神楽です。
どなたかに渡すお歳暮の熨斗(外包装)にわざわざ土を付けんだろう、という話と同様です。

物見遊山な気分になり本質を見誤りそうになるぐらいなら、庭石でも観ている方が良いということです。

オマケ:御札・お守りの注文の仕方・受け取り方(一般的な知識)

まずは専門用語をマスター(一般的な神社を想定)

・角祓(かくはらい)
一般的な神札。神棚に収まるサイズのはコレ。伊勢系では「神宮大麻(じんぐうたいま)」という呼称を用いる(※祓具の「大幣/大麻=おおぬさ」とは別物)。
多くの神社で授与される一般的な神札です。伊勢神宮内宮は呼称が異なるだけで要旨は同じ。

・初穂料(はつほりょう)
宗教法人なので、「料金」とか「値段」などと言わない。
言うと「宗教行為ではなくなる」ので「法人税よこせ」と税務署がなったり色々なアレがあって非常にマズイので、初穂料と言う。

語源は、その年の最初に収穫された稲穂を「初穂」として神様に奉納し、豊作への感謝を表していたことから。
それが金銭で奉納される形式になったので、初穂料。

・お納め(おおさめ)
「ご請求」「お支払いは」「ご料金は」と言うと「宗教行為ではなくなる」のでマズイシリーズ第二弾。
「1万円のお納めでお願いします。」などと言われる。

・一体、二体(いったい、にたい)
御札・お守りの数え方。
神様の御分身をお預けします、ということなので、一個二個、ひとつふたつ、などと数えない。

・頒布(はんぷ)
「広く配って行き渡らせる」の意味。要は「販売」であるが、「販売」と言うと「宗教行為ではなくなる」のでマズイシリーズ第三段。

・お受けします
もらいます。買います。頂戴します。とは言わない。
神社という施設から下賜(身分の高いところからくだされる)いただく、というところで、ここでは「お受けします」が妥当な日本語。

主に伊勢神宮でよく言われる用語

・大角祓(だいかくはらい)
神棚に入らないデカすぎる御札。
大きいことは良いことだ!と購入して、神棚に入らずに家でフリーズする男性多数。
神棚の横に立て掛けておくのが良い。

・神宮大麻(じんぐうたいま)
「伊勢神宮の内宮の神棚用の御札」のみをあらわす言葉。
伊勢神宮以外でも購入可能で、町内会で年末に購入数を聞かれる自治体も多い。
また、伊勢神宮内宮で購入するものは中身が木製で分厚く硬い。
一般的な神社や町内会で手に入る物は薄くてやや柔らかい。
※一説には伊勢神宮のものを「授与大麻」と、それ以外の神社で受けるものは「神宮大麻」と呼ぶらしい。
※伊勢神宮内宮では単に「角祓」と呼んでいたりもするのでややこしい。

なお、どちらもご利益は変わらない。

御札を買ってみよう

あなた「神宮大麻を一体お受けしたいのですが」
神職「角祓一体ですね。では1500円の初穂料をお納め下さい」
あなた「5,000円からのお納めでお願いします。」
神職「3,500円のお戻しになります」
あなた「お受けします」
神職「では角祓一体のお渡しとなります。」
あなた「お受けします」
神職「よくお参りでした」
あなた「(首チョイ)」

御守りを買ってみよう

あなた「この白い御守りを一体お受けしたいのですが」
神職「こちらの御守り一体ですね。では1000円の初穂料をお納め下さい」
あなた「1,000円のお納めでお願いします。」
神職「では御守り一体のお渡しとなります。」
あなた「お受けします」
神職「よくお参りでした」
あなた「(首チョイ)」

これだけであなたも御札・御守り購入マスターです!!

さいごに

いかがでしたでしょうか。
あやしいマナー講師の創作マナーのような「ほんまかいな」系のお話を含んでおりましたが、私が霊能者として「絶対に間違っていない」と主張する、本当に実践しているマナーがこれです。

なんならちょっと前々から「神様の神職への扱いが、驚くほど素っ気ない……」と思っていたので、本記事のライティングを通して見えない存在にお話をお伺いするに、「だからかー」と理由が明確になったのはちょっと嬉しいところです。
(出雲大社の神職さん、巫女さんは「神様に怒られてる率」が多分日本一高いのですが、)

御祈祷の受け方に関しても、うまく説明できなかったものが説明できまして今回非常にスッキリ爽やかな気分で居ます。

ぜひ、日々の神社参拝や御祈祷をお受けするのに活用していって下さい。

私の著書『神様しか知らない「神社参拝の奥義」』絶賛発売中ですので、ご興味がお有りの方はぜひどうぞ。

神気界について


愛知県名古屋市中村区にて、先代より引き継ぎ二代目の霊能者として占い鑑定所を開いております。
完全予約制にて、対面鑑定・電話占いによる鑑定により1日2件限定にて多くの方をご鑑定差し上げております。

一度の相談のみで結果・成果を出し解決する事を重視し、霊能者としての占い・除霊・独自の気功を行っており、また、「事実視えない力が扱える霊能者である」と誰しもが分かるような証明を全ての鑑定にて行い続けています。

お越し頂ける範囲の方の鑑定のみならず、「電話占い」により日本全国に対応しております。
お悩みの有る方や迷いのある方は、ぜひ一度ご依頼を下さい。

個人の方は、対面占い・電話占いともに50,000円/90分にて鑑定を行っております。
皆さまからのご依頼を心よりお待ち申し上げております。

神気界へ依頼する

神気界 泉 皇導<コウドウ>